はじめまして。代表の平野浩一と申します。
私は名字からして(沖縄に詳しい方なら)お分かりかと思いますが、沖縄の生まれではありません。
ペンキ屋を営む父と三味線が大好きだった母との間に、名古屋市中村区で長男として生まれました。
中村区は豊臣秀吉の出生の地として有名ですが、私の幼少の頃は戦後から続く名古屋の下町で、お世辞にも品が良い街とはいえませんが、人情味溢れる私の大好きな場所でした。
父は根っからの職人気質でとても怖い親父でした。子供の頃は体中ペンキだらけ、顔にも何色ものペンキを付けて家に帰ってくる親父を、正直「カッコ悪い」と思っていましたが、いつしか作業着にニッカポッカ、足には地下足袋を履き、いつも全身ペンキだらけの親父の姿を誇らしげに思うようになったのは高校生になった頃だったと思います。
そんな父がいつも小さい頃の私に言っていた言葉は「弱い者を絶対にイジメるな。もしイジメたら、俺がお前をぶん殴るからな!」でした。その時の父の目を見て、「こりゃー本当に殺されるな」と思ったものです。但し、今ではそれが親父となった私の子どもたちへの口癖となっていますが・・・(笑)
その父も2012年7月に亡くなり、当時、私もたくさん泣きましたが、父は今でも私の心の中で生き続けています。
さて、あまり立派とはいえない高校時代を何とか卒業し、昭和59年 日本電信電話公社(現NTT)に入社しましたが、まだ血気盛んだった若き日の私には年功序列を重んじる会社の風土がどうも水に合わず、わずか5年で退職。
その後は小さな会社をいくつか経験しましたが、「これがやりたい!」と心の底から思えるような仕事に巡り会うことはできませんでした。
時代はバブル最盛期。日本中が金に踊らされていた時代。こんな金儲けがある。金で買えないものはない。だます方より、だまされる方が悪い。誰がどれだけ儲かった。人から聞かされる言葉はそんなことばかり。
私も皆に遅れまいと、学歴のない私でも「頑張れば稼げる」という甘い言葉に乗り、外国製の高級家電を販売する会社で働きました。
そこでは私を含め、「お客様のため」に働いている者は誰一人いません。
皆「お金のため」だけに、ただ「モノ」を売る毎日。会社では仕事の仲間同士常に足の引っ張り合い。金を稼いだ者はヒーロー。そうでない者はクズ扱い。私も、たくさんの仲間を傷つけてしまったかもしれません。
そんな毎日が嫌で嫌でしょうがない。でも逃げられない。当時は本当に出口が見つからず、ただ悶々とした日々を過ごしていました。
そんな人生が一転したのが、1996年 秋でした。
当時30歳だった私は、金と欲望、虚構と裏切りが充満している世の中がつくづく嫌になり、考えた末、それまでに何度か訪れたことがあり、私が唯一人間らしさを取り戻せる場所であった沖縄に住処を求め、移住を決断。
しかし、最初は無職宿無しでのスタートで、しばらくは名古屋から運んできた車に家財道具を積んだままの生活でした。助手席には可愛い彼女・・・ではなく、古い型式の扇風機が長らく乗っかっていたのを憶えています。
その頃は、当時有料だった週に一度発売される求人誌をコンビニで買っては、只ひたすら面接を受けまくりました。ですが、住所不定の怪しい奴だと思われたのか(確かに怪しい奴だったかもしれませんが・・汗)なかなか雇ってくれるところはありませんでした。
やがて所持金も底をつきかけ段々と不安になってきましたが、それでも何とか食いつなぐことができたのはウチナー(沖縄)弁当のお陰だったのかもしれません。。(笑)
(とにかく沖縄の弁当は安くて、当時は200円~でボリュームたっぷり)
そうこうするうちに、ファイナンス系の地元企業にようやく就職が決まり、アパートを借りる事ができたのが、沖縄に来てから丁度1ヶ月後の事でした。
入社後はウチナーグチ(沖縄の言葉)に苦しむも、仕事は順調に進み、入社半年後には、沖縄本島からさらに南西に400キロほど離れた八重山支店(石垣島)の支店長に就任。
その後、石垣島の暮らしにもようやく慣れてきた頃、当時私の上司だった富島部長(後に私の人生を左右する人物)からある依頼があり、人生初の北海道に連れて行かれることに・・・
千歳空港に降り立った私がまず連れて行かれた先は、高速道路を飛ばし約2時間のところにある洞爺湖。そこで富島部長が私に向かって「この近くで旧友が営む会社があり、今とても苦しんでいる。その会社を助けるために、ぜひ君の力を貸してやってくれ」と言うのです。
私はとても困りました。尊敬する部長の気持ちに応えたい反面、大好きな沖縄を離れたくはありません。折角のお話でしたが、この件は私が丁重にお断りして、それで終わりかとその時は思いました。
その3ヶ月後、頼まれると嫌とは言えない性格が災いし(涙)、私は沖縄の会社を辞め、雪がしんしんと降る中、北海道で仕事をしていました。
仕事は北海道各地の特産品を車で見て回り、仕入してきた物を道外の会社へ卸販売する業務を一人で行っていましたが、仕事内容もさることながら、私生活の面でも人生初体験のことばかりでした。
例えば・・・
とにもかくにも何もかもが初めてのことだらけでしたが、それでもなんとか事業を軌道に乗せ、さぁーこれからだと思った矢先の出来事でした。
大きな地震とともに有珠山が大噴火。
その瞬間、私の住む町営住宅と仕事場は立ち入り禁止区域となり、またしても無職宿無しに。
一瞬にして「被災民」となった私は、目の前が真っ暗になり、ただボー然と立ち尽くすのみ。しかも今度はさむーい北海道で。
とりあえず北海道庁に連絡し、札幌にある市営住宅に一時避難することに。
仕事も決まらないまま数週間が過ぎた頃、洞爺湖時代時に知り合ったメロン屋の店主から連絡が入り、店主の実家がある八雲町にて久しぶりに会うことになりました。
夜、店主行きつけの居酒屋で落ち合い、お酒を飲みながら店主との再会を喜んでいると、いつもは明るい店主の顔がどことなく暗い。
よくよく話を聞いてみると噴火の影響で洞爺湖での商売が出来なくなり、その後売上げが激減。なんとかしたいとの相談でした。
その時は、「無職の自分に相談されてもなぁー」と困惑しながらも、とりあえず話だけは聞き、翌日は札幌に帰ってきました。
札幌に戻り、店主に聞いた話を今一度自分の頭の中で整理してみました。
店も人もお金もない中、出来る唯一のこと。それは過去にメロンを買って下さった全国のお客様と、再び電話でコミュニケーションを持つ機会を作ることでした。
早速、お客様へご提供できる新しいサービスとは何かを考え、当時はPCはもちろんワープロさえ持っていませんでしたので、とりあえず紙に書き留め、ひとつの提案書が完成しました。
それからしばらくして出来上がった手書きの提案書を店主に見てもらいましたが、信じられないことに、あっさりとNGをくらってしまいました。
NGの理由を店主に聞くと、「人と電話で話すことが苦手」だと。(涙)
ならば、もう私がやるしかないでしょう!と心の中で叫んでしまいました。
その後、店主には私が代わりにやってみることだけを伝え、早速準備に取りかかりました。まずは古い小さな事務所(というよりアパートに近いですが)を短期で借りました。次に電話をひき、女性スタッフを2人雇いました。そしていよいよ全国のお客様へ感謝を込めて、北海道産メロンのご案内スタートです。
しかし、2名の新人スタッフは共に営業経験ゼロだったため、スタート当初は緊張してお客様とまったく会話にならない日が続きました。
困った私はある朝、出勤してきた二人から研修資料を回収し、その代りに心で感じたことをいつもと変わらない北海道の訛りを交えた言葉でお客様と自然体で会話させることにしました。
すると今までぎこちない会話しかできなかったスタッフも、自然とお客様とコミュニケーションが図れるようになり、またお客様もローカル色満載・突っ込みどころも満載の道産子(スタッフ)との会話を、とても楽しんで下さっているご様子がスタッフの笑顔からも伝わるようになりました。
結果は二ヵ月間で、述べ1,500名以上のお客様からメロンのご注文をいただき、お買い上げ後のお電話でも、たくさんのお客様から「美味しかったよ。また来年もお願いね!」と仰っていただき、あまりの有難さに感謝で涙がこぼれました。
しかし、メロンの収穫期は短く、私は再び無職になることに。店主には、来年以降もお客様とのコミュニケーションだけは忘れないようお願いをしました。
無職にはなったものの、電話でお客様との人間関係が少しでも築けたことが私の財産となりました。色々と考えた末、私を北海道に呼んだ富島さんにこれまでの経緯を話し、道内の観光施設へ、一緒に提案営業をしてもらうことになりました。
雪の中を富島さんと1件1件観光施設を回り、最初は殆どのお店で「どこの馬の骨か分からん奴なんか信用できるか!」とのお叱りを受け、時にはアポを取ったにも関わらず、雪の中7時間もかけて訪問した先では、5分と話しを聞いてもらえなかったりと散々な結果でした。
悔しさの中、出張先の阿寒湖で二人で食べたラーメンの苦い味は今でも忘れることができません。当時、富島さんは心の中では相当辛い思いをされていたと思いますが、私の前では常に明るく元気に振る舞ってくれました。私はその姿にいつも後押しされ、頑張ることができたと思います。
それから3ヶ月もすると少しずつ観光施設側の反応が見え始め、半年後には3社との間で合意を取り付けました。その内の1社と初めての契約が終わると、富島さんと二人「やったね~ やった!やった!」と、お互い興奮しながら喜びを分かち合ったのを今でもハッキリと憶えています。
その後、富島さんと相談し、2001年に札幌市内に(株)北海道産地直送センターを設立。代表取締役に富島氏、専務取締役に私が就任しました。スタッフ3名からのスタートでしたが、創業12年目を迎えたころには、富島社長の経営手腕により事業も多角化。スタッフも総勢150名を超える会社となりました。
では、私はといいますと、札幌で会社を設立した翌年(2002年)、北海道とともに日本有数の観光地であり、私の大好きな沖縄に支店を開設することになり、その年の5月7日、私は沖縄の担当役員として帰ってきました。
その後、2006年に沖縄支店を現地法人化し、㈱かりゆし沖縄を設立。
代表取締役に私が、そして沖縄支店開設当初からずっと私を支えてくれた松ちゃんこと松本学君が取締役に就任しました。
そして、2008年 私たちは世界にたったひとつの名入れ泡盛をネットを中心に全国販売を始めました。
そして、今では沢山の方から沢山の「笑顔と元気」をいただけるようになりました。
沖縄を愛する一人としてこんなに嬉しいことはありません。
ある晴れた日のことです。
ひとつの酒造所で生まれた泡盛が、縁あってあなたの家にやってきました。
その泡盛はこれから永い年月を、この世界でひとつの家(環境)で過ごすことになります。
家では毎日、可愛らしい赤ちゃんの泣き声や、明るく元気なお父さんの笑い声、そしていつも家族を陰で支えてくれるお母さんの優しい声が聞こえてきます。
そうそう・・・
宮古島のある酒造所では、泡盛にクラシック音楽を聴かせているそうですが、もしかしたら、泡盛は家族の会話を聞き、日々の出来事を家族の傍で見守りながら育っているのかもしれないですね。
ある日、ひとつの家族のもとにやってきた泡盛が、五年、十年、二十年とともに時を重ねる。
その、家族の物語を記憶した泡盛こそが「世界にたったひとつ」なのです。
誰かを想い、ともに生きた証を受け継いでゆく。
かけがえのない家族の絆が、泡盛の熟成とともに強く結ばれますように。
まだ沖縄での生活がスタートした頃の話しです。まず心を打たれたのが、ウチナーンチュ(沖縄の人)は、日頃からご先祖様や家族、親戚や友達といった「人と人のつながり」を大切にし、その絆こそが人間にはとても大切なことだと気付かされたことです。
極端な言い方をすれば、本土では「幸せ=物の豊かさ」なのが沖縄では「心の豊かさ=幸せ」で、実際に沖縄で暮らしてみると「幸せの価値観」の大きな違いがはっきりと分かります。
沖縄の昔言葉に
「行逢ば兄弟、何隔てぃぬあが (イチャリバチョーデー、ヌーフィダティヌアガ)」
という言葉があります。
「見ず知らずの人であっても、縁あって親しくなれば、お互い兄弟のようなもの。そこには何の隔てもない」という意味で、社会は助けあって成り立つもので、皆が仲良くしなければやっていけない。だから、出会いがあったら、その人を自分の兄弟のように思って大切にしなさいという、沖縄の先人の教えです。
そこには「琉球の世から大和の世、大和の世からアメリカの世、そしてまたアメリカの世から大和の世」と、沖縄が常に日本やアメリカの都合で負担を強いられてきた辛い歴史の中で、沖縄の人たちがどこよりも、そして誰よりも大切にしてきたのが「人と人の結(絆)」だったのかもしれません。
そんな沖縄の人たちの想いを、少しずつ感じ始めていた頃に知ったのが「沖縄では、昔から子どもが生まれた記念に、同じ年に生まれた泡盛を大切に保存し、子どもが二十歳になった時に、同じ年数を重ねた泡盛を初めて甕や瓶から注ぎ我が子の成人を祝う」という素晴らしい風習が今もなお受け継がれていることでした。
それを初めて知った時、正直心が震えるほど感動し、人と人の絆を結び、想いをカタチにできるのはコレだと強く心に感じました。
そんな私も、今では三人の子どもに恵まれ妻と共に忙しい毎日を家族で力を合わせて、明るく元気に過ごしています。
こうして自分の人生を振り返ってみると、何の為に仕事をして何の為に生きているのかを考えた時、やっぱり一番は家族の笑顔をこれからも見続けていたいからだということに気付きました。
今、私の志事は、泡盛文化を通してお客様に笑顔になっていただくお手伝いをさせていただくことです。そして、お客様の『笑顔』こそが何物にも代え難い私の宝物です。
「どこの家庭にもその家族だけの物語を記憶しながら静かに熟成し続ける大切な泡盛がある」
そんな世の中がくる日を夢みています。
赤ん坊が生まれた(ガッツ石松似だ)
初めて歩いた(半歩だけど)
幼稚園のバスに乗る時はいつも泣いていた(可愛い子には旅をさせろ・・・の心境だ)
かけっこで転んで泣いた(悪いと思いながらも笑ってしまった)
中学3年から高校2年までずっと反抗期だった(胸が苦しかった)
二十歳の誕生日 家族揃って20年寝かせた古酒で乾杯した(子どもの涙にもらい泣きした)
結婚した(初めて親に感謝した)
しばらくして夫婦でお店を始めた(夢が一杯だった)
赤字続き(もうやめようと何度も思った)
毎日、夫婦で死に物狂いで働いた(必死だった)
少しずつ商品が売れ始めた(神様っているもんだなと思った)
家を建てた(ローンが心配)
真珠婚の日 25年寝かせた泡盛で二人だけのお祝いをした(結婚してよかったと心から思った)
皆さん、どうですか?
家族の想い出がたくさんつまった泡盛って素敵だと思いませんか。。(笑)
こんなことを日々夢みながら「夢は必ず実現できる!」と信じ、スタッフ一同一丸となり、これからも「沖縄の嘉利吉(かりゆし)」を全国に届けてまいります。
最後までお読み下さり、感謝申し上げます。
にふぇーでーびる!(有り難うございました)
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